イリヤ・カバコフ


ロシア人で好きな芸術家を挙げろと言われて、まず思い浮かべるのがイリヤ・カバコフである。彼の作品に出会ったのも恐らくベルリンのある展覧会だと思うのだが、とにかくその独特の世界観と精密なそして同時に微笑ましくもある彼のドローイングやスケッチに惚れ込んでしまった。始めは何の予備知識もなしに、ただただ眺めて楽しんでいたものの、その作品の裏に潜んでいる物語が知りたくなり一冊の本を手に取ってみた。

それが、沼野充義編著「イリヤ・カバコフの芸術」である。この本にはカバコフの主要テクストがぎっしり詰まっており、ロシア文学者である沼野氏による書き下ろしカバコフ論なども併記されておりかなり読み応えがある。

以下、この本を参考にカバコフについて少しまとめてみよう。

ヴェネツィア・ビエンナーレを始め、ニューヨークを拠点として国際的に活躍しているイリヤ・カバコフ(1933-)は旧ソ連のドニエプロペトロフスク市(現在ウクライナ共和国領)で生まれた。ソ連文化の中心モスクワからは遠く隔たった地方都市である。

しかも彼が生まれたのは旧ソ連で広域にわたって猛威をふるった飢饉の直後のことだた。幼いカバコフは貧しい生活を強いられた。また、カバコフの両親はどちらもユダヤ人であった。ソ連の地方都市出身で、迫害される民族の血を引くという二重の意味で疎外された人間が、モスクワのスリコフ記念モスクワ芸術大学に見事入学を果たす。「イリヤ・カバコフ」というユダヤ人らしからぬ名前のために、入試委員会は彼の血筋に気付かずまともな評価をし、試験結果を公表してしまったというのだ。

また、ここまでイリヤを支えてきた母親は、どこまでも息子について行った。これはどこの町に住むためにも、定職を持ち居住許可証を必要とするソ連のシステムの中では、一筋縄ではいかないことだった。母親には正式の仕事も住む場所もなく、肩身の狭い生活を強いられる事になった。ある学校の備品置きになっていた「トイレ」に母親が住まざるを得ないことさえあったという。
a0087352_0275187.jpgこの体験は、後にカバコフが西側で公開するトイレのインスタレーションの基礎になった。左の写真が1992年にドイツのカッセルで行われた
documenta 9でのインスタレーションである。

現在は大規模な「トータルインスタレーション」で知られる現代作家だが、旧ソ連時代には「非公式」芸術家として活動する一方で、1950年代から共産主義体制の中で絵本画家として生活していた。彼のインスタレーションが「トータル」と呼ばれるのは、「展示空間のすべてが全面的に変容し、観客も通常の町や美術館の状態から締め出されて、観客のために作者が構築した特別な世界に入っていく」からだということになるだろう。また、カバコフの「トータル」(全体的)という言葉の使い方に、旧ソビエト時代の「全体主義」を連想させる何かがあるということだ。もちろんそれは基本的には全体主義的イデオロギーに対して皮肉的で嘲笑的なスタンスを取っているのだが、同時にそれはノスタルジックであり、それゆえアンヴィバレントな態度もここではまつわりついている。カバコフの「トータル・インスタレーション」は、ソビエト生活の空間全体を具現した、つまりは失われたソ連生活の巨大な「記憶装置」として捉える事も出来るからだ。

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入り口側から見た宮殿
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「プロジェクト宮殿」
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プロジェクト宮殿内、プロジェクト・ドローイング:Cloud Management
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プロジェクト宮殿内、プロジェクト・インスタレーション:Cloud Management

右下の写真は1995年にパリのポンピドゥー・センターで行われた彼の「We live here」と題されたインスタレーションである。現在形で「我々はここに住んでいる/生きる」とある。a0087352_058162.jpgカバコフにとって、過去の記憶の再現は彼が生きるために必要なものなのであろう。そこには、過去の辛い記憶とノスタルジアが混在しているに違いない。








最後に、本文からカバコフの言葉を引用しておこう。

 1917年の10月から始まった「ソ連の歴史」そのものが終わり、それはもう二度と戻ってこないものだという感じもはっきりとあった。永遠に続くものと思っていたものが、痛む古い腫れ物のように静かにはじけて外に流れ出た。
 この「ソ連時代」の始めから終わりまでをありのままに理解して、なんらかのかたちで写しとり、記述し、いわば「刻みつけて」おくことはきわめて重要なことだった。人類の歴史において後にも先にもこのようなことが繰り返されることはけっしてないからだ。だが、このソ連の歴史をひとつながりの発展過程としてヴィジュアルに提示するにはどうすればいいのか。


*沼野充義「イリヤ・カバコフの芸術」参照、あるいは一部抜粋。
*本文中の写真はイリヤ・カバコフのHPから

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by zaichik49 | 2008-03-03 02:44 | アート


ベルリン在住、ベルリナーによるモスクワ体験記も一段落。今後も気になるロシアや現在のベルリン生活の中で想うことをつらつら書いていこうと思います。


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